Friday, August 26, 2011

ファーガソンの第4世代

若手主体のチームで結果を出しつつあるマンチェスター・ユナイテッド。「インディペンデント」紙のグレン・ムーア記者は、これをファーガソンの「第4世代」と表現している。


++(以下、要訳)++

それは完全にカーリング・カップ向けのチームというわけではなかったが、月曜日に対戦したトッテナムのハリー・レドナップは、メンバーを見て「勝機あり」と踏んだだろう。

ウェイン・ルーニー、ナニ、そしてパトリス・エヴラはプレーしたが、昨シーズンの栄冠をもたらしたメンバーの多くはそこにはいなかった。ファーディナンド、ヴィディッチ、ギッグス、スコールズ、ファン・デル・サール、キャリック、フレッチャー、エルナンデス、ベルバトフの誰ひとりとしていなかった。ゴールマウスにはルーキー、ディフェンスは半分以上がリザーブ、中盤とアタッカーのひとりずつも控えだった。

90分後。アレックス・ファーガソンは、またしても素晴らしいチームを作り上げていることが分かった。過去と同じように、イングランド人によるコアは4人の若いライオンが固めた。フィル・ジョーンズ、ダニー・ウェルベック、クリス・スモーリングにトム・クレバリがチームの心臓だった。彼らの年齢はそれぞれ、19、20、21、22だ。そこに加わるのは、20歳のダヴィド・デ・ヘア、21歳の双子ファビオとラファエル、23歳のアンデルソン、24歳のナニだが、ある意味、アーセン・ヴェンゲルよりもヴェンゲルらしく新参者でハイクラスなチームを作り上げた。そしてウェイン・ルーニーもまだ25歳であり、アントニオ・ヴァレンシアとアシュリー・ヤングが26歳だ。サラリーやトロフィーの数においてたいていの選手の要求に応えられるとすれば、このチームこそが、何年にもわたってユナイテッドをトップに保つチームであろう。

この先には波もあるだろう。若い選手は下降線を描きがちだし、そのまま消えてしまう者もいるだろう。しかし、ファーガソンにはチームを成熟させてきた経験がある。以下は、これまでに彼が作り上げてきた歴史だ。

1988-93:雛鳥から王者へ

1986年にマンチェスター・ユナイテッドの監督に就任した時、チームには才能があったが、頭打ちになっていた。他の多くのクラブと同様に、チームにはアルコールが蔓延していた。それでも、彼はFAユースカップで2度ファイナルに進出していた若手選手たちを引き継いでいた。1989年の元旦、彼はあるカルテットをピッチに送り込んだ。まだ10代だったリー・シャープ、マーク・ロビンスと20歳のリー・マーティン、ラッセル・ビアーズモアだ。この4人を含むチームは、スリリングな試合でユナイテッドの3-1の勝利に貢献した。

それは夜明け前の微かな光だった。若きスターたちは、そこまで素晴らしくは無いか、マーティンのようにケガに苦しんだ。ファーガソンには、ブライアン・ロブソン、ブライアン・マクレアー、ジム・レイトン、スティーブ・ブルースといったプロを抱えてはいたものの、まだ標準レベルには達していなかったのだ。ユナイテッドは、11位、そして13位でシーズンを終える。

それでも、この雛鳥たちは現代のユナイテッドを作り上げるのに貢献したと言える。1990年の1月には、ロビンスは、FAカップの3回戦でノッティンガム・フォレスト相手に伝説的なゴールを決め、さらには残留争いに苦しむ中イースターの日にもゴールを決めた。マーティンはFAカップのファイナル、クリスタル・パレスとの再試合で勝利を決めるゴールを決めた。これらが、ファーガソンに必要だった時間を稼いだ。

若きスターたちはドロップアウトしていったが、選手獲得のための多額の投資がファーガソンに強力なチームを作ることを可能にした。1991年には、デニス・アーウィン、ギャリー・パリスター、ポール・インスがやってきて、ユナイテッドはカップ・ウィナーズ・カップで優勝した。

ファーガソンはこの道をさらに進んだ。彼はここにピーター・シュマイケル、ポール・パーカー、そしてアンドレイ・カンチェルスキスを加え、タイトルの獲得に手を伸ばした。この年は2位に終わったが、1年後、エリック・カントナを加えたチームは、遂に1967年以来となるリーグタイトルを獲得したのだ。

1995-2003:「ガキじゃ何も勝ち取れない」

当時そう言ったアラン・ハンセンが、後の冷やかしにウンザリしてしばしば口にするように、彼は完全に誤っていたわけではなかった。1995-96年にダブルを勝ち取った「ガキ」のチームは、単にプレミアリーグに送り出された子供のチームではなかった。このチームにはカントナ、パリスター、アーウィン、シュマイケルにブルース、そして若いが既にダイナミックだったロイ・キーンがいて骨格とノウハウがあり、若者が育つのを助けていた。

事実、ファーガソンはブラックバーンに次いで2位でフィニッシュし、FAカップではエヴァートンに敗れたた1994-95年のチームを解体しようとしていたわけではなかった。彼はキーンがリーダシップを学んだポール・インスを外そうとは思っていたが、契約の取り決め上、契約を解消することもできたマーク・ヒューズを失いたくはなかった。キース・ギレスピーはアンディ・コールを獲得するための取引の一部として放出しており、アンドレイ・カンチェルスキスもキープしたかったが、代理人は移籍を強行した。このためセントラルのミッドフィルダーに仕立て上げられていたデイヴィッド・ベッカムは右サイドでプレーし、そこでの出来が素晴らしかったため、以降のキャリアの大半もそのポジションで過ごすことになった。

ベッカムの早い出現が偶発的であったとしても、ファーガソンはライアン・ギッグスが既に輝きを放っていたチームに、ベッカム、ポール・スコールズ、ニッキー・バット、そしてギャリーとフィルのネヴィル兄弟を入れることを長く予期していた。これらの「ガキ」たちのチームは、ドワイト・ヨークやヤープ・スタムといった抜け目のない補強にも支えられ、1999年に三冠を達成する鉄壁のチームとなり、以降、5年間に4つのリーグ・タイトルを勝ち取った。

2004-2011:チェルシーの挑戦を受けて

ロマン・アブラモビッチによるチェルシー買収は、ゲームのルールを変えた。それまでは、ユナイテッドはどんなクラブよりも高い条件を提示することができた。2,900万ポンドでのリオ・ファーディナンド獲得は、ファーガソンによる6度目のイギリス記録更新だった。それ以降、彼が移籍金額の記録を更新することは無くなった。アーセナルの無配優勝の後、チェルシーが2004年から06年にかけて連覇をした時には、オールド・トラフォードには不支持の声が渦巻き、ファーガソンの将来も公に議論された。

ファーガソンは既に反攻の準備を整えており、ウェイン・ルーニーやクリスティアーノ・ロナウドなど、急成長中の才能を世界中から探していた。彼らをパトリス・エヴラやネマニャ・ヴィディッチといった経験ある即戦力と遅れてやってきたエドウィン・ファン・デルサールで補った。これに続くのは、4つの国内リーグタイトルと、ひとつのチャンピオンズリーグ制覇であった。

しかしながら、5月にウェンブリーで対戦したバルセロナの優位は明らかだった。これを受けてファーガソンはチームの再構築に着手し、これまでの枠組みに、経験を積んだ若手や海外か連れてきた才能を移植していった。これまでの実績を見て、彼が良いチームを作れないと賭けるものなどいるだろうか?

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