Sunday, September 23, 2012

ヒルズボロの悲劇:その真実

先日明らかになった、ヒルズボロの悲劇についての「新たな真実」についてのニュースは日本でも断片的に「キャメロン首相が謝罪」といった形で報道されていたが、やはり本国での報道量は非常に多く、「これから正義が下される」というニュアンスも含めて、各メディアのトーンにも力が入っていた。

こういう時はBBCかな、という気もしたけど、フットボール系の記者の間でも評価が高かった、「ガーディアン」紙のデイビッド・コン記者による取材記事をピックアップ。個人的にも彼のコラムは好きで、前にもチケット代の高騰に関するネタをここで紹介している。


 ++(以下、要訳)++

23年の時を経て、何が起きたのかの真実 - そしてそれに続く警察による隠蔽 - が遂に明らかになった。

 

リバプールのアングリカン聖堂での重大な一日を通じて、シェフィールド・ウェンズデーのヒルズボロ・フットボール・グラウンドで落とす必要のない命を無くしてしまった96人の人々の家族には、何よりも「真実(the truth)」という言葉が大事だった。

今では我々も非常にショッキングなほどに詳細を知るに至ったが、この言葉は、「サン」紙の見出しで、南ヨークシャー警察が自分たちがこの悲劇で無実の被害者を出してしまったことへの過失を曲げようと提供された話の記事で恥ずかしくも掲げられたものだ。

18歳だった息子のジェームスを亡くしたマーガレット・アスピノール(訳注:上掲のビデオの中盤でスピーチし、終盤でもコメントしている女性)は、家族は23年間に渡ってその「真実」だけのために戦わざるを得なかった、と語る。息子は、リバプールとノッティンガム・フォレストのFAカップ準決勝を春の日射しの中で観に行き、楽しい一日を過ごすはずだった。ヒルズボロ家族支援会(HFSG)の会長を務めるアスピノールは、遺族の中の喪失は決してなくならないものの、デイビッド・キャメロンによる明確で深遠な謝罪の言葉があったことは「嬉しく思う」と語った。

リバプール主教であるジェームズ・ジョーンズが率いるヒルズボロ独立委員会は、警察、シェフィールド・ウェンズデイ、その他責任のあったと思われる機関の45万枚もの文書を調査し、特筆に値する395ページのレポートで、警察の失策を指摘し、被害者、そしてフットボール・サポーターたちの無実の罪を晴らした。

悲劇が起きた原因、そして警察による責任の転嫁が、この長年を経て明らかになったのだ。しかし、遺族が「隠蔽」と語るものの深さ、特に南ヨークシャー警察による、責任を回避してサポーターたちに無実の罪を着せるための周到で無慈悲な活動への調べはまだ始まったばかりだ。

まだ遺体がヒルズボロ内に設けられた仮の安置所に横たわっていた頃に行われた、申し合わされた調査では、南ヨークシャー警察の本部長であったピーター・ライトが酔ったサポーターかチケットを持たないサポーターが悲劇の原因だった、という話にさせていたことが判った。多くはティンエイジャーで、最年少で10歳、大半が30歳以下だった被害者たちはアルコールのレベルについての血液検査をされた。委員会は、これは「合理的な理由が無く、極めて例外的な判断」と指摘した。全ての関連機関が内部文書を提出した今回の調査で新たに明らかになったことのひとつは、血液からアルコール値が検出されたら、警察は過去の犯罪歴が無いかを確認していた、というものだった。

かなりの部分がベルファストのクイーンズ大学のフィル・スクラトン教授によってまとめられたこのレポートは、8人の専門家によっても満場一致で承認されているが、「際立ったレベルの泥酔やチケット非保持、暴力がリバプール・ファンの中にあったという疑いを正当化する証拠は一切ない」としている。

レポートは、ライトが警察幹部とシェフィールドのレストランで会食し、「弁護」と「確固たるストーリー」を準備していたことを明かしている。南ヨークシャー警察連盟支所の秘書であるポール・ミダップ巡査がライトが現れる前に話をまとめ、「本部長は真実を語ることはできず、秘書に自由にさせつつそれを支援した」。他の幹部と同様だった。

ミーティングは、シェフィールドのピクウィック・レストランで1989年の4月19日、悲劇の僅か4日後に行われた。それは、ケルヴィン・マッケンジーの「サン」紙が、「真実」の見出しを付けた虚実の記事を出した日だった。記事はホワイト・プレス経由で、委員会の調査によれば、皆ヨークシャー警察の4人の警察官が作り上げたものだった。ミダップはリバプールのファンを泥酔と不祥事の疑いで中傷する警察のキャンペーンを継続し、「一体感あるメッセージを部隊全体に伝える」よう支援を受けていた。

委員会のレポートは、議会で行われた不正についても記述を残している。マージーサイド議会の労働党の議員マリア・イーグルが、若い警察官たちからのコメントを、「暗黒のプロパカンダ集団」とまで呼ばれていた南ヨークシャー警察幹部にもみ消させていた。

警察官たちのコメントは、テイラー主席判事(訳注:事故調査を行い、後の90年1月にフットボール界の問題を指摘する「テイラー・レポート」を出すピーター・テイラー氏)からの継続的な取り調べに対して公式な見解として提出されたが、警察自身への批判をかわし、サポーターによる不祥事を強調するために内容が書き替えられていた。委員会は、この取り組みは非常に深く大規模なもので、164のコメントのうち、116までもが「南ヨークシャー警察に好ましくない内容」として、変更、もしくは削除されていたことを突き止めた。

警察は、これを「推測」や「意見」を取り払うだけのために行った、と主張したが、委員会は、この取り組みが、警察の公式見解を出すことよりも、事件を捏造するためにエスカレートして行った、と信じて疑っていない。

スクラトンは、「警察への批判をかわすために行われたものだ」と語っている。

このプロパガンダは、テイラーを納得させはしなかった。彼は1989年8月の時点で、警察の言うファンの酔いや不祥事が誤りであると断じていた。テイラーは、重大な要素でシェフィールド・ウェンズデーのフットボール場は危険な状態で、FAが名誉ある大会の舞台に、ヒルズボロが安全の基準を満たしているかを確かめもせずに選んでいたことを明らかにした。

こうした配慮の欠如に加えて、そこには経験の浅い管理者だったデイビッド・ダッケンフィールドに率いられた南ヨークシャー警察による観衆の誘導ミスが重なり、これが悲劇の「第一の要因」となった。警察はグラウンドの外でのコントロールを失っており、24,000人のリバプール・ファンが、たった23の回転ドアに押し寄せていた。そこで、ダッケンフィールドは、より大きな出口用のドアを開けることを命じ、多くの人数を中に入れさせた。テイラーによれば、この彼の「最大級の大失策("blunder of the first magnitude")」は、既に満席だったレッピングス・レーン・テラス中央のへのトンネルを閉じなかったことだ。

この点については既にテイラー・レポートで述べられているが、それでも簡単には屈しない警察は彼らの主張を 以降の取り調べでも繰り返した。悲劇の日の3時15分以降の起きたことの証拠を集めなくとも、その日の流れは検視官の判断から分かっており、結果的に救急の対応はカオス状態だったと委員会は見ている。96名の死者のうち41名は、警察と救急が適切な対応をしていれば救われていた、という事実が判明し、死者、そして遺族には受け入れることが難しい、とアスピノールは語る。


法務長官のドミニク・グレイブは委員会によるレポートが提出されたことを受け、事故での死因について新たな審問を行うために高等裁判所への訴訟を行うかどうかを検討することになる。

この長年の時を経て、 シェフィールド・ウェンズデー、南ヨークシャー警察、そしてフットボール場の安全管理責任を果たしていなかったシェフィールド市議会への訴訟もありうる話だろう。HFSGの代表を務めるトレヴァー・ヒックスはティーンエイジャーだったサラとヴィクトリアという2人の娘をこのレッピングス・レーンの崩壊で失っているが、彼は全ての法的補償を求めにいくと語っている。「真実は今日明らかになった。明日からは正義のためにある」

アスピノールは、特に権威からの真相が明らかになるのにこれだけ時間がかかり、彼女や他の遺族が長年戦わざるを得なかったことに深い怒りと不正義を感じていると語る。

彼女は「遺族がこの23年間を耐え抜いてこなければならずこれだけの痛みに晒されてきたのは不名誉なこと」と続け、自分たち遺族がこの法的な争いのために資金を工面しなければならなかった一方で、南ヨークシャー警察や、他の公的機関の面々は自分たちの税金から給与を受け取っていることに不平を述べた。

「それでも、彼らが嘘つきであり、我々が誠実だったわけよね」

主教のジョーンズは、自身のリバプール教区での仕事をする聖堂に落ち着いて座り、自身は牧師として「正当な世界にコミットしていて、それこそが委員会としての自分たちの仕事の中心だった。我々は真実、そして正義を追い求めているのだ」と語った。

そして、ここでまたこの言葉だ。これだけの年月と痛み、愛する家族のために決して諦めない遺族による長く辛い戦いを経て、それは遂に取り戻された。「真実」だ。

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このコン記者は、ヒルズボロの悲劇について深く取材をしていて、先週はこれだけでなく多くの記事を出していた。(↓こんな感じの人)


全席指定のスタンド設置義務化等、安全に配慮した流れを生んだことは確かだけど、こうした苦しみがその裏にはあり、消してなくらないことは、もう少しきちんと伝えられても良いと思うし、象徴的な事件や出来事ほど、つながっている点や線の理解が大事なんだな、と痛感した一連の報道。

【ITVによる約1時間のドキュメンタリー】

Tuesday, September 11, 2012

ワールドカップに向けてイングランド代表に必要なもの

夏のユーロを失望のPK負けで終えたイングランド代表には、カペッロ辞任からホジソン就任に至る流れで準備期間も少なく元々期待も低かったが、トーナメントを勝ち上がって行くには限界があることも指摘されていた。

ユーロを終えて、ブラジルW杯に向けての準備こそがホジソン政権での本番と見る向きも多く、ユーロ後の初戦、かつ予選の初戦となったアウェーのモルドバ戦には注目が集まったが、これを5-0で快勝。相手のレベルもあっての結果とはいえ、現地のメディアには一気にポジティブな論調が出回った。特に、10番を背負ったトム・クレバリのプレーや、代表32キャップ目にして初ゴールを挙げたジェームス・ミルナーのプレーを称える記者が多かった印象で、次いでスティーブン・ジェラードとフランク・ランパードの共存を議論する内容が目立っていた。

そんな雰囲気の中で、BBCの「Match of the Day」でお馴染みのアラン・ハンセンが、戦術よりも選手たち自身に目を向けるべきとのトーンでコラムを書いている。


++(以下、要訳)++

イングランドでは代表チームに対して、主要な国際大会でこれ以上の失望を味わわないために、よりフレキシブルで戦術的な取り組みを切望する声がある。そして、モルドバ戦での快勝は、トム・クレバリが中盤とストライカーのリンクマンとして機能する、より進化したシステムでのプレーの最初の兆候だと考える者もいる。

アウェーで5-0で勝ったことの重要性を否定するわけではないが、イングランドのプレーが今後先進的な変化を遂げる時期が来た、と語るにはまだ早い。

私が金曜に見て、この先の予選でも予期できることは、イングランド代表のここ16年間かそこらの間の予選の戦いで見てきたものと同じだ。予選では素晴らしい戦いをしても、本番では無防備さを露呈してしまうのだ。実際、今まで主要大会に向けた予選で大きく崩れることは少なかったし、それはスヴェン・ゴラン・エリクソンの時もファビオ・カペッロの時も同様だった。そして、それがロイ・ホジソンの下であてはまらない理由は見出せない。

監督の戦術的な知性、もしくは選手たちの質の面でのチャレンジは、難しさもあったであろうモルドバでのアウェー戦で訪れることは無かった。しかし、国際大会の場で技術的に最も恵まれているチームに対しては、3ヶ月前のイタリア戦で見たようにそうならないのだ。

最大限の敬意をモルドバに払ったとして、金曜の夜にイングランドが4-4-2、4-3-3、5-3-2のどの形でプレーしても問題にはならなかっただろう。彼らが勝ったのは、より優れた選手たちを揃えていたからだ。

戦術について、向こう2年間好き放題語り続けることもできるが、仮にリオでの準々決勝で技術的に優れたチームと対戦すれば、 何の違いも生み出さないだろう。厳格でないシステムについて語るとき、それは私にとっては、選手たちが試合の進め方について責任を持ち、ピッチでの問題を自分で解決することを究極的には意味している。

ホジソンには彼のシステムを変える必要がある、と考えるのはいささか安易過ぎる。システムを機能させるのは選手たちであり、コーチたちではない。しかしながら、監督は試合が特定の流れにある時に、選手たちがどう対応すべきかについて、指示をすることができる。

ユーロ2012の準々決勝を例にとってみよう。

あの日のピッチではアンドレア・ピルロがベスト・プレーヤーだったことは周知の事実だ。多くの人々、そして私自身も、ピルロには試合をコントロールするためのスペースが与えられ過ぎていた、と考えていた。

イングランド代表のスタッフにもそう考えた者がいると感じるのは、ピルロにいくらボールを持たせようが、実際にイングランド守備を脅かすことはなかった、という別の見方で、それが実際の決着がPKでついた理由だ、とするものだ。

イングランドがウクライナ戦で4-4-2であったか4-5-1であったか以上に私を憂えさせたのは。後者の考え方だ。

あの晩になされるべきだったことは、ウェイン・ルーニーがピルロに時間とスペースがあり過ぎることに気付き、開始15分でもうひとりの中盤の人材となってピルロの前に立ちはだかり、彼がボールに触れるのを防ぐことだった。

ルーニー自身も自分でその判断をする権限があると考えるべきだったし、もしくはチームの誰かがひとりでも彼にそうしろと言えるべきだった。ベンチからそうした指示があっても良かったと思う者もいるだろうが、監督は選手たちがそうした問題点に自ら気付いて対処すべきと考えるものだろう。

したがって、イングランドがよりフレキシブルなアプローチを取るようになる、という点において最も重要なことは、ゲームの流れに応じて選手たちがそうした決断をする自由があると感じられることなのだ。知性ある選手たちには、何が起きているかを判断してほしいだろうし、決まったパターンにとらわれて持ち味を発揮できないような状況は望まないだろう。

イングランド内であれヨーロッパ内であれ、優れたチームには厳格な枠組みなどない。すべてのチームには適応能力のある選手がいて、選手たちに責任あるプレーを望む監督がいる。

4-4-2でプレーしていて中盤の人数で圧倒されていると感じたならば、前線から下がってくるか、サイドがフォローする。スペースが空きすぎていると感じたならば、自分たちの位置取りを確認し、スペースを消すために距離を詰めるべきなのだ。

これらはフットボールの基本だ。監督が予めイメージしておくプレーのイメージとは何の関係もなく、むしろ試合の中で進化していくために状況ごとにどう対応していくかという話だ。イングランドが強敵と対戦する際の問題点を解決するには4-4-2を捨てて4-5-1でプレーすべき、などと提案するのは危険なまでに短絡的だ。

仮にブラジルでのワールドカップが明日開幕するとして、金曜に先発した面々で大会に優勝できるだろうか?答えはもちろんノーだ。

ポジティブな前進は勿論認識すべきではあるが、どんな励みの兆しも、こうしたリアリズムでバランスを取る必要があるだろう。

トム・クレバリを見れば、イングランドには国際的に良いレベルに達するポテンシャルのある選手がいると考えることができる。ジャック・ウィルシャーの早期の復帰は望めないが、彼には海外のスターと同様のテクニックが備わっている。そしてアレックス・オックスレイド=チェンバレンが、将来に希望をもたらす、この際立った若き才能のトリオを完成させる。

しかし、イングランドもこの3人だけで成り立つわけではない。スペインやイタリア、南米の強豪と真剣勝負の場で対等に戦うには、2014年までに同様に高いクオリティを持つ10人のフィールド・プレーヤーが必要なのだ。

私はこの2年でイングランドがその域に達することができると信じて疑わないし、モルドバのような相手に完勝することは、モラルと自信の確立につながる。

しかしながら、より手強い相手と渡り合っていくには、新たな戦術に頼るだけでなく、選手自身を育てていく必要があるのだ。

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たしかにこのモルドバ戦後の楽観ムードは過剰な印象で、ユーロでのイタリア戦の明確な技術面での差はボールの保持率にもシュート数にも表れていたはずだった。ただ、チェルシーが気合と根性の堅守でチャンピオンズリーグを勝ち取った余韻とホジソンに与えられた準備期間の短さもあり、それらを深刻に反芻する流れも起きてはいなかった。

このハンセンの見解は極めて当たり前というか、基本的なことではあるのだけど、そのくらいユーロに望んだイングランドは「堅かった」。時間を与えられたホジソンの下で、この先代表がどう変わっていくは確かに楽しみではあるが、今回のグループHはイングランドの他は、モンテネグロ、ポーランド、サンマリノ、ウクライナ、モルドバ。指摘通りに予選はスムーズに行ってしまう気もするし、イタリア戦のような「学習」の機会が少ないと、応用の利かないチームのままブラジル大会に臨んでしまう可能性も無くもない。